◆(2014年11月)国道208号線をわたる旭町1号踏切◆ 2020年5月11日公開

 2020年多くの人が記録に残したM井化学専用鉄道、つまりはかつての旭町線です。炭鉱電車に比べ、あまり注目を浴びなかった足元のレイルですが、歴史的には興味深い路線です。残念ながら、M井化学専用鉄道としての資料は持ち合わせていませんが、設備としては旭町線をそのまま引き継いでいると思われるので、まずはM井石炭鉱業時代のデータを上げます。

起点 終点 本支線キロ 側線 備考
宮浦 旭町 1.80キロ 1.34キロ 1992(平成4)年現在*1(M井石炭鉱業専用鉄道/旭町線) →M井化学専用鉄道
 
宮浦 旭町 1800メートル 3107メートル 1965(昭和40)年現在*2(M井三池港務所/旭町線)
宮浦 旭町 878メートル 4054メートル 1962(昭和37)年現在*3(M井鉱山専用鉄道/大牟田連絡線)
*1*2)「三池炭鉱専用鉄道沿革」より(大牟田市立図書館)
*3)「15000屯出炭に対応する鉄道輸送とその施設」より

 上表において併記した別の2つのデータ(昭和37および40年)、一見すると全く違うように見えますが、総延長としては両者とも4.9キロで一致しており、同一の線路なのにわずか3年の間に計算方法が異なっていたことが推測されます。じつは、旭町線という名称は長く親しんできましたが、当初からの呼称ではありません。そもそも”旭町”という町名は1917(大正6)年の町名改正以降から使われています。

 この旭町線、歴史的にはかなり初期に敷設された線路であることはあまり知られていないかもしれません。明治24〜27年にかけて三池鉄道が横須浜〜勝立間を一本で結ぶ路線を完成させ、宮原坑へ支線工事に着工したばかりの段階で、のちの鹿児島本線、すなわち当時の九州鉄道大牟田駅*1への連絡運輸を図りました。このための支線が旭町線に当たり、下表のような免許を取得しています。距離がのちの旭町線1.8キロの半分であることに注意。

*1)太牟田駅は1891(明治24)年4月1日開業、1911(明治44)年2月現在地に移転。

起点 終点 距離 免許日 竣工
島ノ上 五反田 44チェーン
(約0.9キロ)
1895(明治28)年10月23日 1896(明治29)年5月14日

 この支線は1896(明治29)年5月に開通しますが、「連絡線」または「省線連絡線*1」と呼ばれています。区間の”島ノ上”、”五反田”とも聞きなれない地名ですが、島ノ上駅は宮浦駅の旧称とされています。ただこの名称はおそらくごく初期だけで、宮浦駅に改称されたと考えられます。また、五反田駅は「連絡所(または「省線連絡所)」と大方は記され、五反田駅ではほぼ資料に現れません。
 この連絡所には小規模ながら操車場が作られています。すでに京町ヤード跡として紹介していますが、この”京町”という町名も1917(大正6)年以降なので、本来は五反田操車場もしくは、連絡所操車場が適当だと思いますが、本稿では使い慣れた京町ヤードで統一します。また、「連絡所」本屋は、いまのガ-デンホテル駐車場の一角、もしくは京町踏切近くにあったと思われますが、1962(昭和37)年12月に鹿児島本線複線化(同年9月)に伴い、現在地に新築移転した経緯があります。
 一方、九州鉄道側からも大牟田連絡線として45チェーン(約0.9キロ)が1896(明治29)年12月22日に敷設されました。なお、連絡線以前には三池鉄道本線と九州鉄道の立体交差においてシュートを用いた石炭積込みが行われています(九州鉄道側が本線上とは考えにくいので、この頃には大牟田駅からの引込線が延びていたのかもしれません)。なお、この大牟田連絡線は、のちの鹿児島本線下り線として活用されたのではないかと思われます。

*1)省とある以上は鉄道省設置(1920(大正9)年)以降の名称と思われます


(1991年3月)東泉町2号踏切付近が島ノ上という地名にあたる


(1992年8月)旭町1号踏切から(再掲)。京町ヤードの入口に当たる。旭町線上にかつての操車場ポイントがのこっていた


(2003年1月)京町踏切に残る京町ヤード跡(再掲)


(2003年1月)京町踏切より宮浦方向


1975(昭和50)年撮影(国土地理院空中写真閲覧サービスより)
京町ヤードの撤去時期は不明だが、昭和50年代までは存在したようである


 太牟田駅構外の貨車授受ヤードとして知られる「仮屋川操車場」ですが、本来は仮屋川充填坑への引込線として敷設されたものです。1938(昭和13)年1月に「仮屋川充填線」として連絡線を延長するかたちでに敷設。途中、長溝川を渡る橋梁があり、Y字に逸れるように鹿児島本線と離れて仮屋川操車場となり、その終端は堂面川の岸辺に近づきます。

 この”充填”とは、採掘後の坑道を土砂で埋め戻すこと。一般的には湿式充填という方法が用いられ、土砂と水を混ぜて液状化し、パイプで古い坑道の切り羽に流し込みます。説明は簡単ですが、実際には地上設備を含めどのようなものだったのかは不明点が多く、そもそも仮屋川充填坑(充填ピットと呼ばれる)が何処にあったのかはよく分からないのですが、操車場近辺には怪しい空き地のような場所がありますので、わたしの推測地点として挙げておきます。

 ところで、2020年5月の専用鉄道廃止後、路線の北側1キロは、JRからの借地のため速やかに返却されるという記事があります。この1キロは大部分が仮屋川操車場を指していると思われ、そうすると鉄道省、鉱山双方の協力のもと、当初から貨車授受ヤードとして機能させることが前提だったのかもしれません。

*1)長溝川は1940(昭和15)年ごろの瀬替え工事(河道変更)が行われ、旧い川筋が”長溝川踏切”として名称が残った


1962(昭和37)年撮影(国土地理院空中写真閲覧サービスより)

1895(明治28)年10月23日 連絡線敷設工事に着手
1896(明治29)年5月14日 連絡線敷設 島ノ上〜五反田0.9キロ
1932(昭和7)年8月27日 仮屋川充填立坑材料線仮設
1935(昭和10)年12月15日 仮屋川充填線敷設工事のうち、溝橋増設 長溝川架橋?
1935(昭和10)年12月15日 省線連絡所操車線1線増設工事
1936(昭和11)年1月4日 省線連絡所電化 売店線、雑品倉庫線含む
1936(昭和11)年6月30日 仮屋川充填線工事着手 充填ピット含む
1937(昭和12)年1月20日 仮屋川充填線電化
1938(昭和13)年1月20日 仮屋川充填線竣工 充填ピット含む
1962(昭和37)年12月 鹿児島本線複線化により旭町停車場本屋を新築移転

 連絡線は1936(昭和11)年、仮屋川充填線は1937(昭和12)年電化されます(仮屋川充填線は竣工当初から電化)。さらに省線連絡線は大牟田連絡線へ名称を変えた形跡があります。おそらく荒尾駅*1にも「荒尾連絡線」が1943(昭和18)年10月に開通したためではないかと推測します。

 以上で、ほぼ旭町線の路線図としては完成なのですが、それでも旭町線とは呼ばれていません。試みに手元の『私鉄要覧』の1957(昭和32)年度版をみると、そもそも「連絡線」は記載が全くありません(ただし連絡駅は大牟田駅となっている)。以下推測ですが、旭町線という呼称が付いたのは1964(昭和39)年7月地方鉄道としての開業以降ではないかと考えられます。下表で名称の変遷をまとめてみました。

*1)1912(大正1)年に万田駅として開業、1943(昭和18)年に荒尾駅に改称


(2003年1月)長溝川踏切からみた仮屋川操車場


(1997年10月)仮屋川操車場終端にて20トン電車が機廻し。
架線柱と線路は一致しておらず、線路が短縮されたことが分かる。


名称の変遷
連絡線
省線連絡線 1920(大正9)年以降
仮屋川充填線敷設 1938(昭和13)年
大牟田連絡線 1943(昭和18)年荒尾連絡線敷設による?
旭町線 ←大牟田連絡線+仮屋川充填線 1964(昭和39)年地方鉄道化による?
M井東圧化学専用鉄道 1997(平成9)年4月1日
M井化学専用鉄道 1997(平成9)年10月1日



 旭町1号踏切の宮浦寄りに1キロポストがあることに気付かれた方も多いでしょう。木製のキロポストは足元が腐り、なぜか勾配標に括りつけられています。この状態をみると、当初からこの場所にあったのか疑念も湧きますが、宮浦駅本屋の位置を停車場中心とすると、ほぼ旭町1号踏切の位置が1キロに当たります。では、旭町線1.8キロの残り0.8キロは?おそらく旭町停車場本屋を越えて、仮屋川操車場の入口の位置ではないかと思います。


(2013年11月)旭町1号踏切近くの1キロポスト



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