浜駅のあちこち
横須坑木倉庫線
2021年1月24日公開

 ”横須坑木倉庫線”は、現在の大牟田市浜町にあった”横須坑木倉庫”へ、三池本線から途中分岐していた引込線です。大牟田川に架かる中島橋の東側一帯が坑木置き場となっています。残念ながら、現地にこれといった痕跡は残っておらず、当時の写真も見つかりませんでしたが、地図資料をもとに考察を試みたいと思います。

 まず文献資料としては、『三池鉱業所沿革史』より、1904(明治37)年4月に横須浜坑木倉庫線が敷設されたとあります。また、『三池港務所沿革史』には、1933(昭和8)年1月に浜材木倉庫線撤去という記事があります。名称が若干異なっているのは気になりますが、おそよ30年間存在したようです。なお、線路撤去は、前年に浜旧工場(材木倉庫)を七浦坑木場に移転(1932(昭和7)年9月完了)したための処置でした。

 地図上、この引込線が記されたものは少ないのですが、おおよそ線形を推測するに、引込線は、築堤上の三池本線の紡績前架道橋の西側より分岐し、本線に並行しながら地平に降りて、1開渠あたりを終端としていたようです。引込線の痕跡が残っていないのは、後年になって、三池本線築堤に”明治町架道橋”があらたに建設されたためではないかと考えられます。明治町架道橋の橋桁には、三池製作所 昭和29年9月の銘板が付いており、(新)大正橋へ通じる道路(現:県道18号/大牟田川副線)を越えるために架けられたものでした。引込線の地平部分は道路化されたか、やや広めにとられた築堤の路盤がその名残りのように思われます。


千紅社発行「大牟田市最新実測地図 大正14年?」略図だが、途中分岐する引込線が記されている


うしやん作図


グーグルマップより空中写真。明治町架道橋より西側、築堤敷地が広いのは引込線の名残り?


(2019年11月)明治町架道橋。パイプラインが撤去されて、橋桁がよく見えるようになりました。本線より分岐した坑木倉庫線は架道橋手前側に、坑木倉庫に向けて下って行ったと思われます。


グーグルストリートビューより。


グーグルストリートビューより。引込線の終端側から。

 ところで、”横須坑木倉庫”がどのような施設であったか、具体的な資料が見当たりませんが、下の地図にて、大牟田川の右岸に窪んだ入り江があり、自然にできたようには見えないことから、おそらく筏で運ばれた原木が貯蔵された水中貯木場だったと思われます。官営馬車軌道時代にはない施設で、地図では細長い楕円に描かれていますが、実際には人工的な四角い貯木池となっていたのでしょうか。

 同じ地図からもう一つ、大牟田川に沿って細線で描かれた線路があります。これは1878(明治11)年大浦坑〜横須浜(横須船積場)に敷設された馬車軌道で、1899(M32)年に大部分が廃止されましたが、残存区間がM池紡績の焚料輸送と、貯木場の作業線として使われていました。その後、M池紡績が使用を廃止(1938(昭和13)年)された以降も、貯木場にて手押し軌道として残ったことが『三池港務所沿革史』に記載されています(横須坑木倉庫線が無くなった後も、軌道だけ残っていたようです)。


駿々堂旅行案内部発行「大牟田市街新地図 大正6」より

 地図をもうひとつ。
 大正橋の傍には、E佛古賀商店と記された建屋が確認できます。古賀の名はのちに外れますが、ここには俗に”坑木王”と称され、三池炭鉱の坑木商いで繁盛した”E佛商店”の事務所がありました。『明治大正 横須物語』(安部靖著 平成13)によれば、1918(大正7)年に建設された瀟洒な洋館があったといいます。また、この洋館が建てられる以前なのでしょうか、『三池郡誌』には平屋の事務所が写真で載っています。

 なお、E佛商店は、『三池港務所沿革史』に、専用鉄道の第三者利用として「1929(昭和4)年5月申請/1929(昭和4)年9月認可 品目 原木その他」として記るされています。専用鉄道外より貨車積みで坑木調達を行うようになったための手続きでした。


千紅社発行「大牟田市著名家実測案内 昭和4」より


大牟田毎日新聞社発行「三池郡誌」より(大正3)


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