浜駅のあちこち
三池製煉所 銀水線
2021年2月21日再編集、写真を追加
2007年8月25日公開
Miikehama-station

 ”銀水線”は、浜操車場より分岐、一路北上してM池製煉所(通称、三煉=サンレン)銀水工場へ至る側線です(→三池浜駅コード)。三池鉄道が私鉄時代の 『専用線一覧表 昭和42(1967)年版』(*1)には「三井金属銀水工場 作業キロ 2.5キロ」として記載されています。

 この銀水線には、前身と呼べる線路があり、それがM井軽金属(以下、三軽)三池工場線でした。下表より、同社三池工場は1943年よりアルミナ製造を始めており、浜駅からの側線が1939〜1942年ごろに敷設されたと思われます。原料となるボーキサイトはパラオ島ガラスマオ村(在パラオ日本大使館HPより)の自社鉱山より船舶輸送され、生産されたアルミナはアルミニウム原料となり、最終的な用途としては航空機の資材になりました。国策として増産が進められていた背景がありましたが、1945年終戦により操業は停止したため、実稼業は2年でした。三軽についての資料はごく少なく、浜駅から3キロ離れた当地(当初は銀水村唐船)がなぜ選定されたかというのも興味深い点ですが、これを説明する資料は見つかりませんでした。米軍の撮影した空中写真によれば、干拓地に忽然と建てられた大工場で、銀水線や引込線が確認出来ます。

 戦後、旧三軽跡地の南側に建てられたのが三煉銀水工場です。同時に休止状態だった銀水線が復活したと思われます。銀水工場は1951年建設に着工し、1954年1月竪型蒸留炉(4炉)の操業によって亜鉛製煉が始まりました。以降、1970年まで蒸留炉の増設(計32炉)が行われています。銀水線でどのような鉄道輸送が行われていたのか詳細な資料はありませんでしたが、石炭、コークス、亜鉛鉱(焼結鉱含む)などが到着、製品を発送していたようです(銀水工場構内図参照)。亜鉛鉱については、NHKアーカイブス「ペルーから亜鉛鉱 福岡(時の話題)」という貴重な映像資料がありました。三池港にて無蓋車、ダンプ貨車に陸揚げし、三煉に輸送しています。1951年ニュースとあるので、銀水工場の竣工以前ですが、おそらく同じかたちの鉱石輸送が行われたと思われます。

(*1)『専用線一覧表 昭和45(1970)年版』にも同じ記事があります。
(*2)『三池製煉所50年の歩み』1964



三池浜駅と銀水線および各工場との位置関係を示しました。なお、三煉銀水工場と三軽三池工場は同時には存在していません。


(空中写真/うしやん@所蔵)太平洋戦争中、米軍により撮影された三軽三池工場。右下が北。上端に堂面川橋梁。ほぼ直線で伸びる銀水線や、引込線が見えます。のちに三煉銀水工場が作られる場所にも建屋と煙突が見えますが、何の工場だったのかは分かりません。


1948年(旧三軽時代のままと思われます)と、1962年(三煉時代)の比較。1962年では、まだ旧三軽内に伸びる引込線が一部残っています(貯炭場?)。

三軽/三池工場時代
1938(昭和13)年 東洋アルミニウム設立
1939(昭和14)下期 銀水村唐船に三池工場の建設着工
1941(昭和16)年4月 銀水村が大牟田市に編入
1941(昭和16)年12月 東洋軽金属に改称
1943(昭和18)年3月 アルミナの製造を開始
1944(昭和19)年5月 三井軽金属に改称
1945(昭和20)年8月 終戦により操業停止

三煉/銀水工場時代(+社名変遷)
三井鉱山三池製煉所
1950(昭和25)年6月 神岡鉱業三池製煉所
1952(昭和27)年5月 銀水工場の建設着工
1952(昭和27)年4月 三井金属鉱業三池製煉所
1954(昭和29)年2月 竪型蒸留炉(4炉)、亜鉛製煉の操業開始
1970(昭和45)年 竪型蒸留炉32炉完成
1982(昭和57)年 竪型蒸留炉12炉へ縮小
1982(昭和57)年8月 三井金属三池製錬所
1986(昭和61)年 竪型蒸留炉廃止
1986(昭和61)年10月 三池製錬
(*)年表は『三井鉱山の百年』『三池製煉所五十年の歩み』を参照。


1975空中写真より


(絵葉書/うしやん所蔵)上段が銀水工場。一番大きな建屋が、竪型蒸留工場となります。なお三池製煉所は亜鉛製煉を終えた1986(昭和61)年から、社名を三池製錬と改めています。

1964(昭和39)年ごろの三煉銀水工場構内図。『三池製錬所50年の歩み』より 1975空中写真より。
竪型蒸留炉は32炉に増設されており、蒸留工場は2棟に増えました。ヤードには貨車の姿が見えます。

 銀水線がいつ頃廃止されたのか、明確な資料がありませんでしたが、空中写真では、1975(昭和50)年撮影でも工場内に貨車の姿が確認できます。一方、1982(昭和57)年撮影では、すでに堂面川橋梁が一部撤去されています。また、年表より、1982(昭和57)年に蒸留炉の縮小(おそよ1/3に)という記事からすると、昭和50年代前半には鉄道輸送が廃止されたのではないかと考えます。沿線に人家は少なく、残念ながら銀水線を走る列車の写真は未発見のままですので、実際の運行状況については確証がありません(文献*1)。余談ながら、”せいれん”の字は、この蒸留炉の縮小を境に、製煉→製錬に変わりました。

 以下、銀水線の廃線跡を辿ってみました。路線が長いので、堂面川を境に南北に分けます。まずは、浜駅〜堂面川の区間を見てみましょう。

(文献*1)「三井三池炭鉱の産業考古学 三池専用鉄道」辻直孝『産業考古学会報 101号 2001年』には、1963(昭和38)年頃あるいは翌年には廃線となり、トラック輸送に切り替えたという元工場勤務者談の記事あり


2016年空中写真より

@


(1995年3月三池浜)レイル撤去中の浜操車場。銀水線は右へ逸れてゆく線路と思われます。


(グーグルストリートビューより)三池浜駅の入口付近の現状。空中写真では水色のパイプラインが廃線跡をなぞっています。

A


(グーグルストリートビューより)銀水線跡として空中写真では確認できますが、通り抜けることは困難な模様

B


(2010年11月三池浜)銀水線では唯一、人家を抜ける場所です


(グーグルストリートビューより)


(2010年11月三池浜)複線分ぐらいの線路跡があるのは気になります


(グーグルストリートビューより)

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 銀水線のハイライト、堂面川橋梁です。本来は5連の鋼桁ですが、1995年の時点で、うち2連が無くなっていました。


(1995年3月)


(1995年3月)枕木の跡も残ります。竣工銘板は見つからず


(1995年3月)

 その後、さらに橋桁1つ、橋脚1つが撤去されました。パイプライン架橋の方法が変更されています。


(2010年11月)


(2010年11月)


(2010年11月)


(2010年11月)

 銀水線の堂面川〜銀水工場間の廃線跡になります。町名は大牟田市手鎌、唐船と変わり、銀水線はほぼ一直線で北へ伸びます。


2016年空中写真より

D

 堂面川橋梁を右岸からみた構図になります。やはり竣工銘板は見つかりませんでした。


(2020年9月)


(2020年9月)


(2020年9月)

 堂面川橋梁からの砂利道は、銀水線跡とみて間違いないと思いますが、廃線跡を辿れるのはここまで、この先は、工場構内となり立ち入りが出来ません。工場の裏側をストリートビューで回ってみました。なお、三煉銀水工場は、現在ではM池製錬という会社に代わっています。

E


(2020年9月)堂面川橋梁から振り返って

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(グーグルストリートビューより)砂利道を抜けると、その先は立入禁止。正面の構内道路が線路跡のように見えます。銀水工場のヤードは、この奥にあったはずです。

 旧銀水工場の反対側です。三軽時代は、ここを突き抜けて、さらに北に延びていました。旧三軽三池工場跡は、現在ではM井金属鉱業となっています。

G


(グーグルストリートビューより)

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(グーグルストリートビューより)

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(グーグルストリートビューより)M井金属鉱業の工場裏側に回っています。旧三軽時代は、鳶浦川の手前まで引込線が延びていたようです。もはや線路跡は分かりませんが、太平洋戦争の遺跡として防空監視哨が残っています。



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