◆1991年3月宮内駅にて◆ 2020年7月27日ストリートビューを追加
2020年7月20日公開

 宮内駅(宮内停留所)は、玉名線の途中駅で、原万田駅(0キロポストあり)から1.6キロ、ひとつ前の大平駅から0.5キロ、隣りの大谷駅までは1.5キロという位置関係にあります。1984(昭和59)年9月をもって三池港〜平井間で運転されていた通勤列車(平井線、通称緑が丘線)が廃止されたことにより、玉名線も使命も終えて廃線となりました。
 宮内駅の開設年は不明ですが、通期列車の開始日を1948(昭和23)年5月とすることから、ホームは同時期に造られたと思われます。乗客は駅北にあった宮内社宅をおもな対象としたものでした。後述するように、当初は客貨両方を扱っていたと思われますが、貨物扱いは昭和20年代半ばには廃止された可能性が高いと考えられます。

 宮内駅の写真は、30年ほど前に撮ったものを並べてみましたが、現在のグーグルのストリートビューで見ても、全く変わっていないのには驚かされます。また、宮内駅から東へ500メートルほどは並行道路に沿うかたちで線路跡がそのまま残っているのも当時と変わりありません。荒尾市が直接の保存に関わっているわけではないようですが、線路跡やホームの雑草も刈りとられる等、かなり良い状態に保たれていることから、地区住民の方が自主的に管理していると思われます。


(1991年3月)オリジナルかどうかは分からりませんが、道路側を向いて駅名板が残っていました(現存せず)。


(1991年3月)ホーム階段は原万田側のみ。駅舎、改札口があったかは不明。


(1991年3月)原万田方向を見る。切通しのなかに線路跡が続いていた。


(1991年3月)大谷方向を見る。線路跡がしばらく残っていた。


(1991年3月)宮内〜大谷間の線路跡。


(1991年3月)大谷駅手前付近と思われます(左奥に見えるゴルフ練習場は現在もあり)。足元に枕木が見えて線路跡と分かりました。なお、大谷〜平井間は線路跡の痕跡はなく、平井駅は駐車場になっていました。

 グーグルのストリートビューから、玉名線を宮内駅から辿ってみました。一部途絶えていますが、かなりの線路跡が残っていることに今更ながら驚きます。










この辺りから荒尾工場線が分岐していたのでは?






ストリートビューで辿れる線路跡はここまで

 玉名線は、もともとM井化学工業*1)専用鉄道(以下、玉名専用鉄道)として敷設され、三池鉄道が地方鉄道に切り替わる際にM井三池港務所玉名線、ふたたび専用鉄道に戻るとM井石炭鉱業専用鉄道玉名線となりました。玉名専用鉄道の免許は以下の通り(参照としたのは『私鉄要覧 1957(昭和32)年版』)。

 動力 蒸気・電気(550)
 軌間 1067ミリ
 区間 原万田〜平井
 キロ数 4.5キロ
 建設予算額 1138000円
 免許日 昭和16年9月13日
 運輸開始日 昭和19年3月14日
 連絡駅 三井鉱山専用鉄道荒尾連絡所
 運転管理者 三井鉱山

 1944(昭和19)年という開通年から想像されるとおり、軍事需要により敷設された路線です。すでに荒尾には1939(昭和14)年より建設に着手していた東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所という火薬工場があり(1942(昭和17)年より製造開始)、M池染料工業所(のちM井化学工業)が原料供給元として増産が要請されていました。『三井東圧化学社史』によれば、「玉名工場」として玉名郡平井村および荒尾町に72万坪という土地を買収し(計画では112万坪)、1942(昭和17)年より建設に着手、また玉名工場の一部を「荒尾工場」とし、航空機のアンチノック剤(耐爆剤)工場を建設、また同時期には宮内工場も着手されましたが、いずれの各工場とも資材不足から計画通りには進まずに、建設中断や規模縮小に追い込まれまれています。

 残念ながら、社史には地図資料や、玉名線の記述がみられず、各工場の配置や、具体的な物流については不明ですが、1947(昭和22)年撮影の空中写真ならば、終戦時とそれほどの違いはないでしょうか。通勤輸送が始まる以前になり、おそらく宮内や平井といった駅はまだないと思われます(なお、起点の原万田駅も存在していない*2)。先述したように、各工場の位置は不明ですが、沿線には少なくとも3つの工場群がありますので、住所等を参考に工場名を当てはめてみました。専用鉄道は、三池本線分岐より宮内工場〜荒尾工場〜玉名工場と結んでいたと思われます。各工場への引込線は明瞭には写っていませんが、推測として工場線を描き入れてみました。

 宮内駅付近からは南の宮内工場、東の荒尾工場の引込線があったと思われます。荒尾工場線については、宮内駅から平井方向にしばらく進むと、山肌を直線に削った場所があり、おそらく専用鉄道の本線から分岐した引込線が敷かれ、工場西側から構内に入っていたとのではと想像しました。また、玉名専用鉄道が荒尾工場を貫いて敷かれているので、途中、ほかの側線があるかもしれません。

*1)M井化学工業は、1941(昭和16)年にM井鉱山より分離する形で設立された。現在のM井化学の前身にあたる。
*2)原万田駅は玉名専用鉄道敷設時はまだ未設置である。免許にある荒尾連絡所がどこを指すのかは不明だが、線路長4.5キロとあり、のちの原万田〜平井4.1キロよりも長いので、鹿児島本線荒尾駅が起点かもしれない。ただし免許取得時は万田駅(昭和18年駅名変更)であった。




1947(昭和22)年空中写真より。この時点では通勤輸送は始まっていない。荒尾工場線については疑問もありますが、現在も山肌を削った直線箇所は残っています。




上の2枚はうしやん所蔵(米軍撮影)より工場を中心にアップで。撮影年月は不明だが、、一部引込線の様子が分かります。

 社史によれば荒尾工場が操業を開始したのが1944(昭和19)年10月とあり、玉名専用鉄道の軍需路線時代は一年にも満たないものでした。終戦によって各工場は目的を失って遊休化しましたが、戦後は荒尾工場が製品転換によって残るかたちになっています。『躍進の大牟田』*1に、荒尾工場について「荒尾市宮内松ヶ浦 工場敷地136900坪(建物敷地9000坪) 生産品目 合成樹脂塗料、清涼飲料水、中間体冷媒」とあります*2。ちなみに敷地面積は大牟田工場よりも広く、戦時中の大規模計画が窺われます。製品に清涼飲料水とあるのは興味深く、おそらく石炭化学工場から製造される甘味料(サッカリン等)との関連があると思われます。ちなみに甘味料についてはM井化学工業では「ミツゲン」という商品名で販売されました。

 さきの『私鉄要覧 1957(昭和32)年版』には、敷設目的として「製品、事業用品の輸送」とあるのは当然として、目的外使用として「従業員、および日用品の輸送、三井鉱山、三池鉱業所従業員、並びに炭鉱労務者住宅建設用資材輸送」とあります*3。戦時中に取得した広大な土地が、戦後に社宅用地として再開発されることになります。おそらく平井駅は緑が丘社宅の資材輸送で賑わった時期があったかもしれません。一方、宮内駅は、1951(昭和26)年5月回線を撤去し原万田〜平井間を一閉塞としたという記事*4から、宮内停車場→停留所に格下げされ、同時に貨物扱いも廃止されたのではないかと考えられます。
 また、このことと関係があるのか分かりませんが、1950(昭和25)年10月から1960(昭和35)年2月にかけて「荒尾工場前停車場」が設置されました*4。駅名からすると、おそらく宮内〜大谷間に位置すると思われますが、詳細について不明。下の空中写真に見られるように、荒尾工場は昭和30年代半ばには閉鎖されています。まったくの想像ですが、宮内駅の貨物廃止の代替として、貨物駅として設置されたのではないかと推測しています。

*1)大牟田日日新聞社1950、記事内容は1949(昭和24)年時点と思われるなお、玉名工場は休止中。敷地面積22100坪(建物1400坪)。住所は「下井手古庄原」とあり、玉名線沿線ではない?が、空中写真に工場らしい建物が見当たらない。
*2)『写真集荒尾』ではシロップとある。なお、同書では荒尾工場閉鎖は1960(昭和40)年。
*3)貨物列車は、1968(昭和43)年の資料で既に玉名線での設定が無くなっている。
*4)『三池時報 昭和46年7月号』「三池鉄道の沿革」吉田次雄より


1962(昭和37)年空中写真より、宮内〜大谷間。両駅とも通勤ホームが確認できます。荒尾工場は煙突を残して、建屋は解体済み、基礎だけが残っているように見えます。


1974(昭和49)年空中写真より。荒尾工場跡はゴルフ場へと変わって現在に至ります。この時点では大谷駅北の大谷社宅が見えますが、現在も一部が廃墟化して残るものの、こちらも大部分はゴルフ場になりました。



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