浜駅のあちこち
M池紡績
(紡績前架道橋)
2020年6月30日公開

 1878(明治11)年に大浦坑〜横須浜間に敷設された馬車運炭軌道(軌間508ミリ)は、1899(明治32)年に大浦坑の運炭ルートの変更によって”廃止”され、以降は炭鉱史が触れることがありませんが、そのまま馬車軌道のすべてが撤去されたわけではなく、実際には鉄道線の横須船積場(横須浜駅)を起点とするようなかたちで、横須貯木場、M池紡績などが、”トロッコ線”として引き続き使用しています。この軌道線があった場所は、鹿児島本線の西側、現在の町名でいえば大牟田市浜町となります。この浜町は、三池鉄道と大牟田川に挟まれ、東西を大正橋、住吉橋を境とする細長い一角です。

 このトロッコ線を大いに利用したのがM池紡績(のちのK淵紡績三池工場)です。紡績工場は、現在の西鉄新栄町の駅前を占めた場所にあり、竣工当時は九州最大の紡績工場と呼ばれています。『三池港務所沿革史』よれば、「鐘紡の焚料炭は明治22年5月18日三池紡績株式会社創立以来、この馬車軌道が唯一の運送機関として永年間にわたり使用せられ、盛なる時代には毎月平均800トンないし900トンの焚料輸送を為し」とあります。この焚料というのは、汽缶(ボイラー)の燃料炭です。また横須浜で陸揚げされる綿花、および製品の綿糸(中島橋あたりに倉庫があったようです)の輸送にあたりました。
 その後、1930(昭和5)年には紡績工場の電化が完了し、わずかに炊事用の月5、60トンの輸送にまで落ち込んだため、1938(昭和13)年12月28日をもって軌道輸送が廃止されました。なお、この3年後には戦争によって綿花輸入が途絶えたため、工場が閉鎖されています。

 紡績工場の映像資料は非常に少なく、ほぼK紡時代に集中しています。工場全体を映した資料は少ないですが、『写真集大牟田』*1にいくつかあり、また読み物としては『明治大正横須物語』*2があります。後者ではイラストにて、工場に馬車軌道が引き込まれる様子が描かれており、それによれば軌道線は紡績工場の正門を掠めて、その左横から工場内に入っていたようです。

 下図にて三池鉄道と馬車軌道、紡績工場の位置関係を示しました(紡績工場内については不明)。軌道については、1899(明治32)年に大浦坑からの区間が廃止された以降*3ということになります。横須浜には船積と貯炭の2つの高架桟橋があり、高架下の貯炭場から大牟田川岸に敷かれた複線の馬車軌道は、旧大正橋あたりで北に向き、三池本線をくぐって紡績工場に至ったようです。なお、現在では、大牟田川の改修や、新設の道路や橋もあり、馬車軌道跡をすべて辿るのは難しいですが、川岸のトロッコを想像してみることは可能です。

*1)安元薫編(1982)
*2)安倍靖著(2001)
*3)『三池港務所沿革史』によれば、泉橋近くにあった医局や倉庫も馬車軌道を引き続き利用したが、間もなく廃止された。





(絵葉書/うしやん所蔵)紡績工場正門。わかりにくいが、左隅にわずかにレイルが見える。


(絵葉書/うしやん所蔵)汽缶室にて石炭を燃やして蒸気を作る。ランカシャーボイラーのようである。


(絵葉書/うしやん所蔵)製品である綿糸を梱包したもの。”KIUSHI”はKIUSHIU(九州?)、”加重加長”は中国語で重く長いの意味で、輸出用であろうか。鐘淵のマークではく、三井のマークがはいっているのは?

M池紡績略年表
1889(明治22)年 M池紡績設立(→1891(明治24)年操業開始)
1898(明治31)年 K州紡績 三池工場(本社)
1902(明治35)年 K淵紡績 三池工場(→1942(昭和17)年閉鎖
1943(昭和18)年 M井化学工業 明治町工場(容器工場)
1945(昭和20)年 空襲により明治町工場焼失→復旧後にM西容器(ドラム缶工場)、三化売店、三化グラウンド
1969(昭和44)年 西鉄新栄町駅開業に伴う駅前開発により施設撤去


1962(昭和37)年空中写真より。新栄町駅駅前開発以前であり、紡績工場時代の面影が残っていたという。M西容器が明治町工場を引き継いだのは1965(昭和40)年。

 上表のように紡績工場が閉鎖されたあとはM井化学工業(現在のM井化学)が引き継いだ時代を経ましたが、西鉄が新栄町駅を開業(1970(昭和45)年4月)する際の駅前の開発用地として、残った工場も撤退し、紡績時代の遺構もふくめてすべて撤去されました。

 唯一、かつての紡績工場の名残りといえるのが三池本線跡に残っています。その名も「紡績前架道橋」、正式名称よりもガード下食堂*1のある場所といったほうが分かりやすいでしょうか。橋台、橋脚ともにイギリス式の煉瓦積みです。架道橋は橋脚をひとつ挟み、それぞれの桁間は凡そ3.5メートルと5.5メートルですが、正門との位置関係から、おそらく広い方を馬車軌道が潜っていたのではないかと思われます。
 なお、橋台と橋脚は、枕石が低い位置に残ることから、三池本線の嵩上げの痕跡が見て取れます。これは九州鉄道(現在の西鉄大牟田線)の栄町延伸(栄町駅が1938(昭和13)年10月開業)による工事で、電気鉄道のため必要となったようです。三池鉄道では1938(昭和13)年7月に着工、1939(昭和14)年8月を竣工としています。

*1)残念ながら閉店しています。


(2012年11月)架道橋を南側から。かつての紡績工場正門がガードをくぐった正面にあり、軌道線が伸びていた。


(2012年11月)北側から、奥に旧大正橋が見える。軌道線は橋の袂から手前に向かって伸びていたと思われる。


(2014年11月)


(2009年11月)築堤の南側のみ、線路敷まで石積みされている。築堤上に施設のあった名残りか?


(2012年11月)橋脚は上下で幅が異なる。


(2014年11月)宮浦側の橋台。嵩上げの痕跡。


(2013年11月)浜側の橋台。こちらにも嵩上げの痕跡があるが、上げ幅がやや少ない。三池浜に向かって下り勾配のためか。



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