三池港駅のあちこち
三川工場線
M化学工業
2020年7月25日追記
2017年9月12日公開

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Miike minato

 該当書をお持ちの方も多いと思いますが、『トワイライトゾ〜ンMANUAL10』の「タンク車のスチーム暖房」(福田孝行氏)という記事に、三井東圧工業所有のタキ3952号が載っています。この記事のテーマは蒸気加熱管なので、石炭酸専用のタキ3900形はその一例に過ぎないのですが、タキ3952号を目を凝らしてみると何やら三池港駅常備の文字が…(?!)、三池鉄道の私鉄時代、宮浦駅、三池浜駅常備とともに三池港駅常備とする私有貨車もいたのかと。


左下が三井東圧工業所有のタキ3952号

 印刷解像度の限界もあり、三池港駅と読んでしまうのは、わたしの錯覚の可能性もありますが、三池港にM井化学工業 三川工場という石炭酸(フェノール)工場があったのは事実です。M井化学工業は、現在のM化学の前身企業のひとつですが(旧社名の”学”は旧字体を当てる)、三川工場についての資料はごく少なく、大著の『三井東圧化学社史』にも数か所見つかっただけでした。

1938(昭和13)年3月三川工場にてフェノールの生産開始
1951(昭和26)年3月三川工場にてフェノールの生産再開(休止時期があったようです)
1970(昭和45)年4月三川工場の操業停止

さらに『躍進の大牟田 事業と人物』*1には工場の規模(1949(昭和24)年当時)についての記事がありました。

三川工場 大牟田市新港町11

生産品目 中間体(石炭酸)(休止中)
工場敷地 9800坪(建物2500坪)

 休止中となっていたのは上記の社史とも合致していますが、住所であった新港町1-1は今でも空き番のまま(ちなみに新港町1はかつては旧三井鉱山系の施設共通の番地)。三川工場が三池港の何処にあったのかは、各種地図を調べてみても工場名や建物名が記されることがなく、わたしにとって長年の謎でした。

*1)大牟田日日新聞 1950



 当初、わたしが想像していたのは、三川電鉄変電所の南側、もしくは三池本線と桟橋線を挟んだ箇所のいずれか場所でしたが、盛業中の昭和30年代の空中写真を見てもここに工場らしい建物が見つかりません。いずれも貯炭場や(三池火力発電へのベルトコンベアが少し見えます)や、旧三川海岸の痕跡を残す沼池が残ってるだけでした。一方、少し北側に目を向けると、三川電鉄変電所のすぐ傍に、ぽつんと2本の煙突が立った空き地があります。建物はすべて撤去済みのようですが、白っぽい地面はコンクリートのように見えます。
 ここはかつて三池港電化の立役者となった四ツ山発電所の跡地でした。四ツ山発電所は1907(明治40年)5月に新設された石炭火力発電所。1926(大正15)年三川発電所に改称、1937(昭和12)年6月に廃止されました。桟橋線に沿うような南北に長い建屋と、煙突がその両端に2本づつ4本立っていました。

 先述のように三川工場の資料は極端に少ないのですが、わたしは三川発電所(跡)が、廃止翌年の1938(昭和13)年にはフェノール生産の三川工場として転用されたのではないかと推測しています。
 下記の空中写真は1962(昭和37)年ですが、該当の場所に建物が残っていますね。北側の細長い黒い部分は発電所時代からの貯水池ですが、この周辺に貨車らしい姿も見えます。2本の煙突はおそらく発電所時代のもの(コンクリート製)を再活用したと思われ、工場廃止後に建屋は撤去されましたが、ed731003さんのブログ(『炭鉱電車が走った頃』)によれば、煙突だけは1976(昭和51)年にもまだ残っていたそうです。



 三川工場への引込線は、『専用線一覧 1967(昭和42)年版』の三池港駅の欄に、「M井化学工業 作業キロ 2.0キロ」とあるのが三川工場線と思われます。地図資料Aは1965(昭和40)年頃の三池港駅の簡略配線図ですが、旅客ホームのある三池港駅の傍から折り返す側線が南に延びています。この線路も元々あった三川発電所線を再活用したようにも見えます。

 下の写真は、1992(平成4)年夏に三池鉱業所を背にして旅客線跡を撮ったものです。右手が三池港駅に通じますが、横切る道路は前年に拡幅されて踏切跡の面影がなくなってしまっています。当時は全く意識していませんでしたが、旅客線の隣りに奥へ延びる空き地があり、これが三川工場線の跡のように感じます。なお、現在では撮影地は有明海沿岸道路の築堤となり跡形もなく一変しています。

左側の建物は農林省門司植物防疫所三池出張所

<2020.07.25追記>

 『三井東圧化学社史』に、三川工場の動向についての記述がありましたので追記します。
 三川発電所→三川工場についての記述は以下です。
 「日中戦争開始後、陸海軍からフェノールの大量納入の要請を受けた三井鉱山は、応急対策として休止中であった三川発電所を利用し、これを改造して月産200トンのフェノール工場の建設を進め、昭和13年4月に試運転を開始、同月10月には月産250トンとした」
 フェノールは火薬原料であるピクリン酸の原料となるため、軍需物資として重要でした。終戦とともに三川工場は休止されたと思われます。

 戦後、再び三川工場が稼働するのは系列会社であった東洋レーヨンのナイロン増産による、原料フェノールの需要増でした。以下、社史より。
 「飛躍的な成長を遂げたのは、東洋レーヨン(現:東レ)のナイロン原料用に新規需要を確保したフェノールである。東洋レーヨンは、昭和25年3月、ナイロン日産1トン設備を完成、わが国初の本格的な合成繊維生産を開始した」とあります。フェノールの需要はその後も伸び続け、1956(昭和31)年1月には月産1200トンに増設されたとあります。フェノールはM井化学の主力製品の一つとなりますが、その後、製法の変化や大牟田事業所の事業再編によって、三川工場は1970(昭和45)年4月に生産停止したとあります。

 1955(昭和30)年、フェノール増産のころ、石炭酸専用とするタンク車(タキ3900形)が登場します。社史には三川工場にてタンク車(タキ3922号)の荷役写真がありました。東洋レーヨンは消費側ですが、自前でタンク車を所有した事例になります(通常は生産側が所有)。ウィキペデアのタキ3900形の解説によれば、東洋レーヨンはトップナンバーを含む24両を所有しましたが、その後、1961(昭和36)年に全車三井物産所有に移籍しました。その意味で東洋レーヨン時代の写真は珍しいと思います。


『三井東圧化学社史』より。タンク車タキ3922号は1959(昭和34)年三菱製。タンクローリーと共用のため、引込線が舗装されています。



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