炭鉄の風景あちこち
宮原駅
逆様川線その1
2013年9月15日公開
MIYANOHARA COAL MINE

 明治32年鉄道局報「自家用鉄道」の項に「三池郡駛馬村大字西米生字逆様川、即ち平原勝立間2哩29鎖76節より、同村同大字字白川に至る」とあるのが逆様川線です。自家用鉄道とあるのは、この時点では専用鉄道規則が未施行のためで、翌年の局報からは専用鉄道と改まります(組織変遷)。ちなみに起点側である横須浜〜平原〜勝立は狭義の鉄道としては敷設されておらず(鉱山の運搬施設として認可)、鉄道施設として認可されたのは逆様川線が初めてとなりました。



明治27年11月 逆様川〜白川間免許取得
明治28年7月 逆様川線着工
明治29年12月 逆様川線(57チェーン=1.1キロ)開通
大正9年10月 電化

 逆様川線の敷設については注として「宮原坑開鑿のため」とあり、宮原坑(第一坑)工事の着工(明治28年2月)に合わせた敷設でした。第一坑は明治31年3月より出炭を開始しますが、路線図を見るように、石炭船積港の横須浜へは、直通できずに一旦逆様川分岐で折り返すという不便なルートとなります。このため、出炭開始と同じ明治31年7月には横須浜への短絡線となる七浦〜筒井原の免許を取得、翌年11月には開通させますので、運炭線としては、当初から新ルートがメインとなっていたと思われます。逆様川線→短絡線の順序で敷設した理由は史料には明記がありませんが、七浦〜筒井原(短絡線)の敷設が遅れた理由は現地に立つと何となく分かります。この区間には小山(慈恩院というお寺の裏手)が進路を塞いでおり、三池本線はこの山をまっ二つに切り裂くように敷かれていました。切り通しを見ると、ゴツゴツとした岩肌となっており、工事には手間が掛かったことが想像されます。ちなみに三池本線の最急勾配の区間でもありました。おそらく宮浦坑の開鑿を急ぐため、平坦で敷設が容易な逆様川線からという順序になったと推測されます。

 明治29年敷設以降の逆様川線については全くといっていいほど、史料に現れません。廃止時期についても不明ですが、昭和20年頃までには本線側の分岐(筒井原分岐)が廃止され、残った線路も間もなく撤去されたと思われます。そこで、三池鉄道の路線図等をもとに、敷設から廃止までの経過を辿ってみたいと思います(この点、新史料が出てきましたら加筆修正します)。

 @三池本線が万田(明治33年)三池港(明治38年)と延伸され、明治41年の三池港開港によって石炭輸送の流れが大きく変わります。旧来、勝立駅からの石炭は七浦駅を経由して横須浜へ運ばれるという経路でしたが、開港後は逆様川線を経由して直通で三池港に向かうことが可能となりました。大正時代の路線図では、勝立線を三池港駅側に向いた支線として描いており、この意味では逆様川線が勝立線に吸収されたようになっています。また、運炭以前から、三池港築港時のコンクリートの混合材として勝立線沿線の火山灰が大いに活用されたというエピソードもあります。なお、勝立線のうち、平原(七浦)〜逆様川の区間は七浦採石所線となり、七浦駅の支線となります(勝立線とは接続は途切れます)。
 大正9年10月に宮原〜勝立間が電化とあり、逆様川線を含めて電化されました(三池本線は大正5年1月に電化済み)。





 A昭和3年勝立坑閉坑と同時に勝立駅は廃止され、昭和7年中には勝立線の撤去も完了します。火山灰採取所については、手押し軌道が設けられ、火山灰倉庫(早鐘連絡所跡地)と結ばれます。またY工場線(元早鐘採土所線)は、七浦採石所線と結ばれ(昭和6年)、宮浦駅へ直通出来るようになりました。
 この頃に逆様川線が廃止となった可能性があります(三池地図@昭和10年の路線図)。ただし、わたしが1997年に石炭産業科学館でみた別の昭和10年頃の路線図では下図のようなデルタ線となっていたのをメモしていましたので、作図にわずかな時間差があるかもしれませんが、逆様川線がしばらくは残ったと解釈します(免許上は昭和15年版まで確認できました)。



 B昭和19年に勝立線が再敷設(逆様川〜勝立間)されますが、これは東谷地区に火薬庫が設けられたためでした。戦後はすぐに通勤路線(宮浦〜東谷間)として再活用されます。このため、戦後間もない頃の地図から、新勝立線は描かれていますが、一方、逆様川線のルートで描かれることが無くなります。このことから、勝立線再敷設時、あるいはそれまでに逆様川線が廃止(休止?)されていたと考えられます。




本館ページへ戻る
逆様川線その2