わたしが見た炭鉱電車
(1990〜2020)
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 ”わたしが見た炭鉱電車”というと、なんだかエラソーで恐縮ですが、三池鉄道の付き合いも、かれこれ30年になりましたので、ここいらで、わたしなりにヒストリーを振り返ってみたいと思います。正直言えば、古いものから記憶が曖昧になりかけていますので、ここいらで備忘録でも作らないと永久に忘れそうという深刻な理由もあります。
 わたしが本格的に撮り出したのは1990年からですが、まずは1997年までを「その1」としてまとめました。正確に言えば、「三井石炭鉱業専用鉄道」となっていた時代です。つまりは、三池炭鉱の閉山(1997年3月)まで、三池浜〜三池港間の三池本線として、”最後の7年間”の記録となります。この期間は年に1〜2回訪ねていますので、当時の輸送内容を振り返ってみたいと思います。

 ちなみに、1990年の直近10年の間に無くなっていた事項は、以下のようになりました。資料は、最初の三池港駅の訪問時に頂いた『沿革』からです。
 1984年6月三井東圧横須工場全線閉鎖
 1984年10月通勤列車運行終了(最終時は万田線・玉名線)
 1986年4月三井コークスAB炉廃止(コークス炉全面廃止)
 1987年11月電気化学全線廃止

 鉄道ファンには、通勤列車に注目が集まっており、とくに1980年代は多くの記録が残されているので目の愉しみとなります。わたし的にはこれ以上に悔やまれるのは、コークス炉全廃後の訪問だったということでしょうか。おそらく三池港→宮浦の石炭、宮浦→三池港のコークスといった三池本線を生かした社内輸送が行われたはずですが、当然ながら間に合いませんでした。三池本線を行き交う石炭列車を生で見てみたかった・・・

 さて、下図は、おおむね1990年時点として作成した三池鉄道の路線図になります。すでに、貨物列車の運行は三池港駅と宮浦駅のそれぞれの局地輸送がメインとなっており、三池本線も名ばかりの状態となっていました。とはいえ、三池鉄道最後の輝きを見ることができたのは、つくづく幸運だったと今更ながら思います。


 ”<社内>三池浜→三池港の石炭列車”は、三池本線を全通する最後の定期列車だったはずです。この石炭列車は、浜貯炭場にて石炭を積込み、三池港駅へと運転されていました。貯炭場ではショベルローダーによる直積みです。この石炭はどこから?、これは良くわからないのですが、貯炭場には荷卸しの設備がないので、おそらくダンプカーで持ち込まれていたと思います。この輸送(社内では”シフト輸送”と称した)は、1990年中に廃止されたようで、偶然にも目撃できたのはラッキーでした。

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(1990年3月三池浜)
浜貯炭場線にならぶ15両のセナ炭車。炭車の向こう側に貯炭の山がありました。線路終端から先は有明海。線路に近づいてみたが、靴があっという間に黒い泥だらけになりました。

 <JR継>三池港→旭町の石炭列車”は、平成筑豊鉄道の金田駅に接続していた三井セメント田川工場向けの石炭発送です。三井鉱山私有のホサ8100形、JR貨物のセキ6000(のちにセキ8000に交代)を用いて、仮屋川操車場を介して大牟田駅に継走されます。午前に空車を引き取り、午後に発送するというダイヤでした。この田川工場向けの石炭列車がいつ頃から始まったのか不明ですが(セメント工場稼働は1964年より)、1977年2月に廃止→1979年5月復活という経緯があります。おそらく当初は、国鉄セラ1とセキ6000を用いられ、1983年から石炭に種別変更されたホサ8100が加わったと思われます。1992年10月に、セメント工場が石炭調達先を変更したことにより廃止。1992年というと、わたしが足繁く撮ったのが最終年となりましたが、この時点は扱い量は増加傾向にあると聞いていたのですが…。なお、列車廃止により、宮浦〜四ツ山間の貨物列車が消滅し、1995年頃に上り線撤去が行われました(万田〜四ツ山間の単線化)。

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(1992年7月西原)
旧西原駅はJR荒尾駅と近いこともあり、夜行列車から折り返して、朝一番の撮影には好都合でした。22号電車がホサ8100*2両をひく短列車ですが、このホサは宮浦止まりの先送りで、ないときには単機となりました。このあと、22号電車は旭町から空ホサを牽いて三池港駅に戻る運用でした。
(1991年3月三池港)
三池港駅を出発した、22号電車牽引の金田向け石炭列車。船渠岸壁にて撮影。編成は綺麗にホサ8100形で統一されていました。
(1992年8月原万田)
旧原万田駅を通過した20号牽引の返空列車の後ろ姿。ホームよりの撮影。この角度では分かり難いですが、セキ8000、ワム80000付きでした。

 ”<社内>三池港⇔宮浦の電車回送”は、貨物列車としての運転ではありませんが、宮浦駅で使用する20トン電車+電源車を、三池港駅にて整備するための回送スジが設定されていました。このほか、金田向け石炭列車廃止後も、45トン電車を旭町線にて使用するため、単機回送が運転されていました。両者とも1997年3月まで運転されていたと思われます。
(1993年3月万田)
万田駅の通勤ホーム付近を通過する17号電車。撮影時点では、まだ金田向け石炭列車が廃止されたことを知らなかった。急な
カメラの故障で慌てた。

 ”<JR継>宮浦→三池浜の化成品タンク車輸送”は、三池浜駅にあった三井バーディシエ染料への到着輸送です。浜貯炭場の手前に短い荷役線がありました。三池浜駅にあった専用線の多くは1970〜1980年代より、次々と廃止されましたが、同社の1978年の稼業により新たに始まった輸送でした。20トン電車+電源車の仕業が組まれていましたが、運転頻度は低く、わたしは目撃できないまま、1993年頃に廃止された模様です。このタンク車輸送の終了により、三池浜〜宮浦(通称、浜線)の列車設定がなくなり、全線廃止前の1996年頃には三池浜駅および浜線のレイルが撤去されました。

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 ”<社内>九電貯炭場→三池港の石炭列車”は、三池港の北地区にあった九電貯炭場と三池港間の石炭列車です。貯炭場内のネガを紛失したので、代わりに三池港駅からの分岐線の写真を上げておきます。九電貯炭場は、以前はスタックローダーよりベルトコンベアにて港発電所に送炭していましたが、1983年より炭車輸送に切り替わっています。貯炭場内ではショベルローダーによる炭車直積みが行われました。
(1990年3月三池港)
九電貯炭場を背にするかたちで、三池港駅方面を望みます。セナ炭車がもやに霞んでいました。

 ”<社内>三池港→九電港発電所の石炭列車”は、三池港南地区にあった港発電所への石炭輸送です。調べたところ、1990年の時点では1号機(2号機は前年に廃止)が稼働しています。九電への線路は、三池本線の海側に沿うかたちで別線があり、本線に支障なく運転できるようになっていました。港発電所には、推進運転で入線しています。社内輸送としては、もっとも大口顧客として、45トン電車牽引による16両編成にて4往復程度の運転がされていました。1997年3月の最終時まで運行されています。

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(1993年3月三池港)
港発電所にむかう20号牽引の石炭列車。船渠岸壁にて撮影したもので、岸壁にはダンクロローダー3号機と梅丸(ズリ積み船)が見えます。
(1992年8月三池港)
港発電所前に到着した19号牽引の石炭列車。右端にすこし見えているパイプラインをくぐって、発電所に推し込みます。特徴的な発電所の煙突も見えています。手前の複線路は三池本線。

(1990年3月三池港)
港発電所の構内をゲートから。引込線は大きくカーブしており、終端は見えませんでした。

 ”<社内>三池港→四ツ山の石炭列車”は、三池港の南地区にあった”三池火力発電”三池発電所への石炭輸送です。三池火力発電は1988年の設立ですが、もともとは三井アルミニウムの自家発電所として建設されたものでした。四ツ山駅に到着した石炭列車は、推進運転で発電所線へ入線しました。荷卸しのようすは、すぐ傍の道路から見ることもでき、45トン電車の運転士と話ができるほどでした。一日2往復程度と思われ、1997年3月の最終時まで運行されています。

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(1992年8月四ツ山〜三池港)
四ツ山駅にむかう21号牽引の石炭列車。
(1990年3月四ツ山)
三池火力発電の荷役線に21号が入線していました。もう一つの線路は”南突線”で、三池港の石油基地へ通じていましたが、すでに使われていませんでした。

 ”<社内>大島貯炭場→四ツ山の石炭列車”は、四ツ山駅から分岐していた四ツ山坑線から、さらに分岐した大島貯炭場からの石炭列車です。残念ながら大島貯炭場には行っていませんが、1991年時点に限れば、列車が走れる状態に見えました。実際に列車が運行されていたかは不明ですが、おそらく、この後すぐに廃線となったと思われます。
(1991年3月四ツ山)
大島貯炭場への線路が左手に分岐していました。屋根越しに見えている立坑は旧四ツ山第一坑です。この時点では四ツ山坑への線路も残っていました。

 ”<JR継>旭町⇔宮浦の化成品タンク車列車”は、宮浦駅に隣接した”三井東圧化学大牟田工場”に出入りしたタンク車輸送です。大牟田駅より仮屋川操車場を経由していました。両数的なメインとなるのは、定期的な濃硝酸と液化塩素の到着貨物で、濃硝酸専用のタキ7500、タキ10450、タキ29000、タキ29100形、液化塩素専用のタキ5400、タキ5450形が見られました。このほか、発送貨物としてはTDI(ポリウレタン原料)が見られ、私有のタキ4850、タキ19600形が用いられましたが、輸送頻度は低くかったように思います。なお、タンク車についてはこの他の種別もまれに見られたので、わずかな不定期な輸送があったようです。濃硝酸と液化塩素の2品については、1997年3月本線の廃止以降も輸送が継続しています。
(1996年2月旭町1号踏切)
返空タンク車を牽いて仮屋川操車場にむかう11号電車+電源車です。朝一番の仕業でまだ薄暗かったです。20トン電車は単機で宮浦駅に戻る仕業となっていました。
(1992年7月旭町)
旭町駅より、仮屋川操車場よりタンク車を牽き出す20号電車。タンク車は宮浦駅で切り離され、20号電車は単機となって三池港駅に戻ります。
(1996年2月宮浦)
9号電車が大牟田工場より濃硝酸タンク車を牽き出してきました。なお、左の17号電車は、この時点で三池本線が休止(パイプライン工事)のため、宮浦駅に足止め中とのこと。1990年代は宮浦駅ではあまり撮っていなかったのは意外。
(1995年7月宮浦)
宮浦駅の南、三坑町4号踏切にて。写真が遠いですが、奥に見える荷役線にTDIタンク車(タキ4850形)が入線していました。一番手前の線路は三池本線です。

 ”<社内>三池港⇔三池浜のイベント列車”と聞くと意外に思われるかもしれませんが、1990年代に2回のイベント列車が運行されています。いずれもJRより客車を借り受けて、三池本線を45トン電車の牽引で往復しました。地元地域の招待客を乗せての運転だったため、いずれもわたしは見ることが叶いませんでしたが、当時の新聞記事を見つけています。

◆1990年8月18〜19日、”子供倶楽部 in OMUTA協議会”主催による”大蛇シティー未来号”。三池浜〜三池港間を計7往復。14系客車2両に大蛇山のデコレーションが施されました。
◆1995年11月29日”産炭地域活性化の集いinおおむた 変わらなきゃ!大牟田”主催。旭町〜三池港間1往復。22号牽引で12系客車2両。22号電車には大蛇山のデコレーションが施されました。

 三池浜や旭町(仮屋川操車場?)という、通勤列車時代にも客車が入線しなかった区間にも運転されたことも注目されます。なお、鉄道趣味誌では短信レベルの扱いで話題にはならず?
 このイベント列車と直接の関連があるのかわかりませんが、1990年頃に”三池鉄道の活用”案を取り上げた記事がいくつか見つかります。実際に、大牟田市では民間調査機関によって、観光鉄道および地域鉄道として事業化が可能との結果を得て、三池鉄道活性化協議会を設立しています。ちょうど大牟田や荒尾に大規模テーマパークが次々と建設されていた頃です。


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