炭車略史
炭車形式と両数変遷
その1
2007年10月10日公開
outline history of coal hopper car

 三池鉄道では石炭車を「炭車」と称しましたが(それ以外の貨車は「台車」)、ここでは炭車誕生から終焉までを略史としてまとめてみました。
 三池鉄道では、明治24年12月の鉄道運転開始から炭車を用いた石炭輸送を始めました。三池炭車の特徴のひとつとして「底開きホッパーカー」ということが挙げられます。底開きという構造はレイルとレイルの間に石炭を卸す仕組みで、この構造は筑豊炭田を抱えた筑豊興業鉄道も採用し、のちに九州石炭車の標準構造となるまで普及しましたが、これら鉄道と三池鉄道との技術的なつながりは不詳です。通説では明治26年筑豊興業鉄道が採用した6トン石炭車(輸入車)をその嚆矢としており、鉄道史の系譜としてはこちらが正統でしょうが、鉱山史という視点からは三池炭車を嚆矢とする記述がおおく見られること(*1)は注目すべきだと思います。
 まずは炭車略史その1として、明治24年の開通〜昭和10年代まで、およそ50年間の炭車史をまとめました。この期間は、一言でまとめれば、三池形炭車の時代といえると思います。4トン−8トン−16トンという整然と大型化したオリジナルな炭車を新製増備し、三世代にわたる世代交代を果たしました。

 4トン炭車の登場

 さて、三池鉄道が明治24年横須船積場〜七浦坑間を開通した際、最初に採用した炭車は「4トン炭車」でした。「最初の炭車は木製4トン、底に2ヶの開閉戸があって、船積みの際にこれを開いて石炭を落下させる装置である(文献1)」とあります。この4トンという荷重は、のちの三池炭車の基準単位になりました。荷重選定の経緯は不詳ですが、当初の軌条が34ポンド(17キロ相当)という軽規格だったことが、ひとつの目安になると思います。とはいえ4トン炭車1両が馬車軌道の鉱車(0.44トン)の9車分(およそ2列車分)になり、輸送力を桁違いにアップさせました。また、記事中に「船積み」という語句ありますが、底開きという炭車構造と、船積場の「高架桟橋」という施設の組み合わせによって、船積みの時間短縮と省力化が達成されました。たとえば70トンを船積する場合、「170の小炭車と30馬匹を要し、1時間以上を費せしも、汽車用炭車は僅か18台、時間12分を以て積み移し得る(文献1)」と簡潔に比較されています。三池鉄道では、高架桟橋から自然落下によって炭車から直に船積する方法は横須船積場に見られ、三池港では船積機を介した機械荷役へと移りましたが、高架桟橋は三池港貯炭場の施設としてより大規模に用いられました。
 4トン炭車は明治23年中から製造が開始され(*2)、鉄道開通時には100両が用意されといいます。その後、総数 324両(総荷重 1296トン)まで増備されました。製造期間はおよそ明治35年頃までと思われます。ちなみに、明治35年は、万田坑の開鉱や、三池港築港工事の開始など三池炭鉱史の一区切りとなる年です。4トン炭車は、およそ明治年間の主力炭車といえますが、明治45年頃には次世代8トン炭車と総荷重トン数で逆転しました。大正10年代から両数を減らし始め、使用廃止は昭和9年となり、これは次々世代16トン炭車の登場と入れ替わりになります。

 8トン炭車の登場 

 「8トン炭車」は、明治38年5月、25両が登場し(文献2)、4トン車と入れ替わりに昭和初期までの長期間に合計485両(総荷重 3880トン)が新製増備されました。この形式の特徴は、まず4トン車の2車分に大型化されたこと、鉄製車ということ、また製造に鉄道車輌メーカーが参加しています。形態的にも、九州鉄道などの同クラス(6〜9トン車)の石炭車(国有化後はテタ〜形)によく似ています。
 登場の時期から、8トン車は三池港に対応した大型炭車と位置づけることが出来ると思います。開港までの間、勝立坑、宮原坑、万田坑の開鉱によって、明治25年の出炭量46万トンは明治40年には148万トンと増産され、おそらく3倍増となった出炭量はそのまま鉄道輸送量へと反映したと思われます。この間、例えば4トン炭車の3倍増(約250両の増備)や、本線の中央区間(宮浦坑〜七浦坑)の複線化など頻繁運転が図られていますが、官営時代以来の最大懸案(大型汽船が係船可能な港がない→大牟田港から口之津港への仮航送)は、三池港の築港による決着を待たなくてはなりませんでした。築港によって、宮浦〜三池港という本線の大部分が複線化され、頻繁運転の体制や、重軌条化が図られました。
 8トン車の登場によって、8トンが荷役の新単位になったことは、三池港船渠岸壁に3台備えられた石炭船積機(ダンクロ・ローダー)のバケッツ容量が8トンということからも分かります。船渠岸壁に平行して設けられた四ツ山貯炭場からは、15トン電車によって8トン車8両という編成で船積機に連続送炭されました。
 8トン車は製造の時期が長いことと、鉄製で耐用性があったことから長期にわたって用いられました。大正時代はおおむね、4トン・8トン車の時代といえ、大正年間ごろの絵葉書では4トン・8トン車が混車された編成もしばしば見られます。また昭和20年代には炭箱の嵩上げによって多くが10トン車(セ形)に改造されました。文献3によれば、昭和30年代までは現役だったようです。
 なお、8トン炭車は「セヤ形」という形式がつけられていますが、登場期から形式があったのかははっきりしません。

 16トン炭車の登場
 「16トン炭車」は、8トン炭車をさらに2車分大型化した炭車として登場し、三池オリジナル炭車の完成型となりました。昭和9〜13年の短期間の新製増備ながら合計240両。総荷重3840トンは、両数的には倍の4トン車と同じ輸送力を確保しています。登場の時期は、ちょうど三池コンビナートと呼ばれた、炭鉱と石炭乾留工業、製煉工業などの成熟期にあたります。形式「セロ形」という形式があたりますが、やはり登場期から形式があったのかは、はっきりしません。面白いことに、車番は501から始まっていて、8トン車との番台区分が行われています。
 8トン車の2車分ということは、炭箱の構造にも現れていて、中央仕切りによって8トンづつの2室に分かれています(それぞれに開閉戸は2つ)。これは先述した、船積機の規格に沿ったものと思われます。形態的にも類似車輌のない、車高を抑えた(その分、車長が長い)、独特なスタイルをしています。
 昭和10〜20年までが8トン・16トン車の時代といえ、16トン炭車は平成時代まで生き残りました。

 7トン炭車の増備
 「7トン炭車」ついては、文献1に「明治41年6月から初めて宮浦立坑で土砂充填が開始されるに至って、浜駅構内の殻捨から焚殻を炭車に積んで宮浦に輸送されるようになり、後の充填列車の魁となった。…その後、充填列車整備のこととなり、国有鉄道の中古車118両を大正2、3年にかけて購入、4年8月大浦採鉱所の土砂積に使用」という記事があり、このことを鉄道統計から補うと、大正2年版に底開き石炭車45両、3年版にも同型73両が三井鉱山譲渡と記され、記事と一致しています。
 当時、国鉄では石炭車の増トン改造(9トン、13トン化)の最中で、その一方で改造不適格となった全木製車、木鉄混製車が民間に放出されました。7トン車は木鉄混製で、用途も荷重も特殊でしたが、昭和10年まで使用されました。


 三池鉄道全史を通じて、おおざっぱな概算ですが、ピーク時で800両、平均500両前後というのが炭車在籍数の推移と思われます。本線10キロにも満たない鉄道としてはおそろしく炭車密度の高い数字のように思われます。なぜ、このような膨大な炭車数を必要としたのでしょうか。
 ひとつには、沿線に複数の坑口があったため、坑口〜港というピストン石炭輸送が輻輳していたことはありますが、恐らくこれだけでは説明できないでしょう。そこで港湾荷役の本を読んでみると、「炭車貯炭場」という単語が目に入りました。文字通り、積車した炭車を貯炭場として換算する方式です。例えば、ダンクロ・ローダーの船積能力は1台毎時300トンですが、最大能力を発揮するためには毎時40両の8トン炭車をつぎつぎ荷卸線に送り出さなくてはなりません(ちなみに3台のダンクロ・ローダーが同時荷役も可能)。そのためには、あらかじめ積車した炭車を待機させておく必要がありました。当時の荷役中の写真をみると、15トン電車に牽かれた炭車列車が、何編成も続行運転のように連なっている光景が見られます。また、いったん貯炭場に石炭を卸してしまうと、石炭の粉砕によって価値を減じてしまう、積み込みに人手と時間がかかる等もあったと思われます。
 さらにまた、三池鉄道特有の輸送として沿線の各事業所向けの石炭輸送が錯綜していたことが、これだけの両数を必要としたもうひとつの要因と思われます。つまりは坑口〜港(貯炭場)〜事業所というという石炭輸送です。石炭化学を中心とする三池コンビナートは、大正半ばからその形成が始まり、昭和10年代に完成を見ます。

(*1)例えば『鉱山発達史』(明治33年)など。
(*2)製造に関しては不詳点が多いが、三池鉱業所総年譜によれば明治23年1月製造着手。
(文献1)『三井鉱山五十年史稿本』より。
(文献2) 『三池炭鉱専用鉄道概要』より。
(文献3)
『鉄道ファン 21号 1963年3月号』より。昭和37年撮影としてセヤ2047号が目撃されている。


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炭車略史その2