S模運輸倉庫専用鉄道 (長浦臨港線)
その1

2020年10月7日加筆・修正
2020年10月1日公開


 長浦臨港線(または田浦臨港線)と呼ばれた、田浦駅から長浦港へ伸びていたS模運輸倉庫専用鉄道です。すでに多くの優れたリポートがあり、付け加える新発見はありませんが、わたしの記憶蘇生(=修正)も兼ねて写真をまとめてみました。わたしが訪ねたのは1992(平成4)年と1993(平成5)年、いずれもお正月に出掛けています。当然ながら港湾作業はなく、家族連れが倉庫街で凧揚げしたり、多くの人が岸壁で釣りをしていました。当時、すでに貨物扱いは米軍の燃料輸送のみになっていたので、平日にノコノコ行くと、しょっ引かれるよという噂(?)があり、わざわざ正月を狙っていったと思います。改めてわたしの写真を見ると、今となってはグレーもしくはNGゾーンな写真も多く、正月とはいえ、よくもまぁズカズカと撮ったものだと思いますが、この点についてはご寛恕ねがいたい。
 田浦駅の貨物扱いについては資料間の相違も見られますが、Wikipedia等を参照すると、1984(昭和59)年に廃止→1987(昭和62)年復活、1998(平成10)年最終発送→休止→2006(平成18)年正式廃止されたようです。ちなみに1992年には米タン(タキ3000形)を多数見かけましたが、1993年では1両もいませんでした。


 長浦臨港線の原形は、”海軍軍需部線(以下、海軍線)”です。軍需部とは海軍の物資、すなわち兵器から燃料、被服糧食までを扱う部署になります。横須賀海軍軍需部の設置は1923(大正12)年ですが、すでに長浦地区には1917(大正6)年竣工の第三水雷庫(F倉庫として現存)があり、途中の吾妻川橋梁も1917(大正6)年竣工なので、正確な敷設時期は不明ですが、おそらく大正半ば頃に敷設が行われていたとみて間違いないでしょう。長浦港には、長浦地区の長浦倉庫、比与宇地区の比与宇倉庫(おもに弾薬庫)などが昭和以降も次々建設され、線路が網の目のように敷設されます。

 また、1929(昭和4)年に比与宇(ひよう)隧道が竣工、田ノ浦地区にも線路が通じるようになります。すでに1927(昭和2)年に軍需部本部が田ノ浦に設置されていたほか、岸壁沿いに田ノ浦倉庫が設けられました(現在も海上自衛隊施設)。隧道との前後関係は分かりませんが、新井掘割水路沿い(箱崎燃料基地)に進んで比与宇地区を結ぶルートも敷設されています。

 なお当初、海軍線は、現在の田浦駅前を出発点に、長浦倉庫〜比与宇倉庫〜田ノ浦倉庫を東西に結んでいましたが、1943(昭和18)年に田浦駅西側に七釜(しっかま)隧道を開通させ、比与宇地区から東西に広がるようなルートに変わりました。これが戦後も長浦臨港線として活用されます。田浦駅は両端をトンネルとする狭隘な構内なため、七釜隧道は貨物増加に大いに貢献したことと思われます。

 1945(昭和20)年の終戦後、旧海軍軍需部線は、国有地(大蔵省所管)や一部が米軍接収などされますが、旧海軍長浦倉庫の一部を民需転用することにより、”東京湾倉庫専用鉄道”として再出発しました。さらに、1975(昭和50)年8月に社名変更(*2)によりS模運輸倉庫専用鉄道と変遷しています。なお、専用線としている記事が多いですが、正しくは”専用鉄道”です。

 『私鉄要覧 昭和32年版』より東京湾倉庫専用鉄道時代の記事。

 区間 横須賀市長浦地内 4.1キロ
 建設予算 4705千円
 免許 昭和24年10月16日
 運輸開始 昭和25年7月1日
 連絡駅 横須賀線田浦
 運転管理者 自社
 動力 蓄電池
 敷設目的 貨物搬出入
 目的外使用 日本専売公社の田浦倉庫輸入塩内地塩、日通横須賀支店の肥料

 海軍時代からはかなり短縮されたかたちですが、これが我々がよく知っている”長浦臨港線”ということになります。動力を蓄電池としているのは興味深いですが、手元の『機関車表』にも該当機はなく、詳細は不明。海軍から引き継いだのでしょうか。なお、同書より確認できる最も古いシャンターは1962(昭和37)製のKATO10トン機なので、およそ40年間ほどの使用機関車は不明ということになります。

 つづいて専用線一覧から。書式が一定ではなく追跡が難しいですが、古い順に。

 『専用線一覧 昭和26年版より』
 東京湾倉庫 専用鉄道
 作業方法 国鉄機 相手方機
         機関車キロ0.4キロ
        第1積卸線1.3キロ
        第2積卸線1.4キロ
        第3積卸線0.8キロ
        第4積卸線1.1キロ
 記事 大蔵省線(旧海軍航空廠)

 『専用線一覧 昭和45年版』より
 東京湾倉庫 専用鉄道 
 第三者利用者 日本通運
 作業方法 国鉄機 私有機 移動機
 作業キロ 西1番線1.1キロ
        西2番線1.1キロ
        西4番線0.9キロ
        東5番線0.7キロ
        東6番線1.0キロ
        東7番線1.1キロ
             延長キロ計4.1キロ
 記事 @大蔵省所管
     A一部駐留軍接収中
     B日本通運取扱品目は次のものに限る
     イ.食糧並びに日本専売公社の塩、煙草の発送及び到着
     ロ.揚陸肥料の発送 
     C駐留軍との共用線のみ保守管理

 (ちなみに『昭和32年版』には西3番線1.0キロが存在している)

 さらに”駐留軍専用線”として、「田浦 専用線番号339 作業キロ2.8キロ」が存在しています。倉庫での貨車扱いが無くなった以降も、米軍線が引き続き使用されます。箱崎燃料基地からの航空燃料輸送です。

 また、東京湾倉庫専用鉄道から分岐するかたちで、

 アミノ飼料工業 専用鉄道(*3)
 作業方法 私有機 手押し
 作業キロ 1.1キロ 延長キロ 6.2キロ(→延長キロは誤記と思われます)
 
 なお、田浦工場は1962(昭和37)年操業開始→1982(昭和57)年工場閉鎖。比与宇地区に現存するサイロが関連ありそうですが詳細は不明(→工場位置については教示いただきましたので、その2に記事)。

 参考までに『昭和58年版』では、社名変更以外の変化は無し、なお、アミノ飼料工業→伊藤忠飼料(作業キロ1.1 総延長0.9キロ)となったが使用休止中。また、駐留軍→在日米軍へと呼称が変わったほか、在日米軍専用線 作業キロ 1.1キロと変化している。

(*1)海軍軍需部関連については、横須賀市HPおよび、HP「東京湾要塞三浦半島房総半島戦争遺跡探訪」様をおもに参照しました。
(*2)東京湾倉庫と相模運輸の合併による。

(*3)日本アミノ飼料として1961(昭和36)年創立。なお、すでに『専用線一覧 昭和36年版』に日本アミノ飼料専用鉄道 作業キロ1.1キロ(私有機東京湾倉庫社機)として記事あり。同社は1964(昭和39)年にアミノ飼料工業へ、さらに1980(昭和55)年伊藤忠飼料へ社名変更。

 以下からは、戦後の長浦臨港線としての様子をおもに取り上げていきます。まずは専用鉄道はどのような配線となっていたのでしょうか。これついては、こちらのブログに1967(昭和42)年の配線図(*1)がありましたので、これをもとに七釜隧道より先の線路を書き直してみました。この配線図から気付くのは、西線側で現地と異なる個所があり、側線の撤去とともに、線名変更されたと推測しました。具体的には、西3番線と機関庫線→西1番2番に変更したのではと考えます。また、この配線図に記入されていない側線がいくつかあるほか、アミノ飼料線の記載がありません。
(*1)ブログ「懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに」さま



 空中写真をもとに、長浦臨港線の全体像を見てみます。空中写真は1983(昭和58)年のものから、簡単に路線図を書き込んでみました。有蓋車の姿が多く見られ、上記の配線図にはない側線も確認できます。





 ここからは実際の臨港線を辿ってみます。ついでに、グーグルストリートビューも照らし合わせてみましょう。田浦駅から七釜隧道をくぐった線路は2線となり、ここが貨車授受線です。途中まで電化され、JRF機が入線出来るようになっていました。ただし機回しは出来ないので、空タンク車を推し込むかたちと思われます。配線図でいえば、東1番線、東2番線です。
 写真は撮っていませんが、途中、吾妻川をガーダー橋で渡っており、昭和3年横河橋梁製作所という銘板があったというリポート(*1)があることから、七釜隧道ができる以前から既に側線があったようです。もともと線路両側には海軍工廠があり、戦後、民間に払い下げられています。

(*1)HP「明治大正昭和 神奈川で近代を見つける」様


授受線に並ぶタキ3000。カーブの先に吾妻川橋梁、さらに七釜隧道があり、田浦駅に繋がっている


(1993年1月)一番左の線路が比与宇隧道方向に分かれる



 貨車授受線から分かれ、比与宇隧道を結ぶ線路にシャンターが留置。1992年時点では1(協三工業)と2(日本車輌)の2台で、お正月らしく、1号は注連飾りを付けていました。








1993年1月




(1993年1月)角松とともに


1993年1月


左が田浦駅へ、右が長浦倉庫街へ。正面を横切る線路が岸壁、箱崎燃料基地へ。


 鉄道と道路の併用トンネルとして有名な”比与宇(ひよう)隧道”。撮影時点では、線路は”軌道終端”の標示位置でぷっつりと途切れていましたが、本来は、線路は隧道を抜けて田ノ浦地区とよばれる場所に出ます。さらにその先、線路は左右に分岐して、右方に海軍倉庫、左方は水路沿いに回り込んで、箱崎燃料基地に至り、岸壁からの線路に接続していたはずです。結果、後者は田浦駅を起点とするようなループ線となっていたようです。
 なお、比与宇隧道の側壁には坑口を埋めた跡が4か所残っていました。こちらのブログによれば、側壁の向こうは網の目のような地下壕が掘られているそうです。また、横須賀市のHPによれば、比与宇隧道内にて弾薬の積卸しを行っていたとあります。

(*1)ブログ「Dijital ArtwaorksTeeART」様






突然の軌道終端。側壁には横穴を埋めた跡が並ぶ。



 比与宇隧道を折り返し、有名な連続平面交差から線路を辿ってみましょう。道順的には田浦駅前に戻るかたちになります。この区間は一般道に沿っているため、リポートがもっとも多く見られます。まずは平面交差を東西から。






1993年1月








吾妻川橋梁(大正6年竣工)


吾妻川橋梁は撤去済み

 線路沿いに3階建ての施設が見えてきました。横須賀港湾合同庁舎として横須賀海上保安部や横須賀税関支署が入っています。線路は建物の先で二手に分かれます。一方は、線路が分断されていますが、長浦港の岸壁へ、もう一方はさらにS字にカーブして終端の留置線に。まずはこちらを目指します。場所的には田浦駅前に近づいています。






撮影時点で、岸壁線は分断済み








正面の倉庫はK倉庫。右手分岐が岸壁へ。すでに線路は塞がれた状態


線路は右にカーブして終端となるが、七釜隧道が1943(昭和18)年に開通するまでは、左に分岐して田浦駅に接続していたと思われます。左に少し見えるマンションの向こうが田浦駅です。



 線路終端では2線になり、海上自衛隊艦船補給処に突き当たるかたちで終わっていましたが、海軍時代は線路がさらに先に続いています。おそらく西1番線2番線だと思いますが、もともとは機関庫線、西3番線と呼ばれていたかも。終端にシャンターが留置された写真も残されていますので、比与宇隧道からここまでの区間、一応(?)は走れる状態になっていたと思います。







 合同庁舎前から分岐した線路は、倉庫側線を分岐(重機や資材で埋もれていた)をへて、岸壁まで通じていました。配線図でいえば西4番線でしょうか。右手に折り返す線路は、そのまま岸壁沿い(東6番線)に伸びていきます。


1993年1月

(その2へつづく)
特記以外は1992年1月撮影


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S模運輸倉庫専用鉄道
その2

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