三池鉄道前史
馬車軌道その1
2003年2月7日公開
Prehistory of theMiike Railway

 明治24年末まで使用された馬車軌道については、資料の乏しさ等からあまり言及されることが無いようですが、のちの三池鉄道の前身として、その鉄道敷設にいたる全ての要因が提出された重要な時代であるといえます。ここでは馬車軌道敷設にいたる経緯をまとめてみました(なお、このページは多くを福岡県史収録『三池鉱山年報』に依っています)。

 明治6年に工部省鉱山寮三池支庁が設置され、官営鉱山としてスタートした三池炭鉱でしたが、御雇い外人たちの報告書の中に、三池炭鉱のウィークポイントとして運炭方法の問題が指摘されていました。当時はどのような輸送が行われていたのか、坑口、輸送方法、販路の三点から見てみましょう。
 まず、坑口は稲荷山や平野山・高取山の周辺に、藩営時代から引き継がれた多くの小坑口が乱立していました。現在の三井化学の工場構内から龍湖瀬町や歴木(くぬぎ)にいたる一帯ですが、このあたりに坑口が集中していたのは、三池炭鉱の発祥伝説として「稲荷村農夫が稲荷山にて燃える石を発見した」と伝えられることから知れるように、大牟田市東方にある三池山(標高388メートル)の隆起によって、本来地底あるべき石炭層の一端が地表に露頭していたためです。狸掘りと評された手掘りの採炭が行われていました。
 採炭された石炭は、荷車(大八車)や五平田馬によって大牟田川河口(横須村)に運ばれ、そこで小船に積み替えられて、遠く長崎港まで運ばれました。牟田地(低湿地の意、大牟田の由来)のため、雨季には板を橋に並べて通したと記されています。
 何故、わざわざ長崎港まで運ばれなくてはならなかったのでしょうか。まず、時代背景として炭鉱が外貨獲得のための輸出産業であったという史実によります。石炭輸出ときいても今では隔世の感がありますが、日本やシナ(清国)に立ち寄る外洋航路汽船(石炭を燃料とする)はもっとも重要な販路で、寄港地となる長崎、上海、香港への輸送が使命となりました。
 三池炭鉱の場合、理想的な輸送経路は大牟田にて汽船に直積みすることでしたが、干満の差が激しい有明海に面しているため、汽船が接岸できるような港がなく、やむなく大牟田川での積み替え〜長崎への移送を強いられたわけです。「当今、石炭を小船へ積込むに(大牟田)川中にて竹籠の便を以す。尤も二三十噸積みの小船にして満潮にのみ入得、右船にて島原へ送り大船に積み替え売場まで運ぶ。その費にして剰にして、石炭は砕け、代価を減少す(ムーシェ報告書)」「古河(大牟田川なり)における当今の港は、石炭の船積みに便なること、一ヶ月間僅かに十二日に過ぎさる(ゴットフイ報告書)」とみられるように、継走輸送は不安定かつ不経済であったことが知れます。
 船積港をいかにするかという問題は、じつは官営当初から検討され、三井三池に引き継がれた最大の懸案でした。周知のように、明治41年、世界的に見ても珍しい船渠式という三池港築港によって解決をみることになります。

 前置きが長くなりました。
 明治6年、官営三池の鉱山長となった小林秀和のもと、三池炭鉱の近代化を推進することになり、鉱山寮のお雇い外人たちによるプランが提出されました。坑口をどこにおくか、港をどこにおくか、坑口と港を結ぶ手段(およびルート)をいかにするか、この点を見ていきましょう。
 先の報告書に出てきたムーシェとゴットフレイは、三ツ山坑〜諏訪川(河口に波止場を建設)馬車軌道案を提出しました。三ツ山坑も、地名の三ツ山も現行地図には地名が残っていませんが、古い地図と照らすと大牟田市早鐘町の不知火ゴルフ場内にあったと推測され、従来の坑口群とは高取山の尾根ひとつ隔てた位置になります(三ツ山坑は明治10年開鉱、三池初の立坑となる)。新坑口、新設波止場を結ぶルートは、三池炭鉱のすべてを刷新する案であったといえます。
 さらにムーシェは「大坂・神戸間同様の鉄道を鋪き、馬を廃し、蒸気車機械二組と取り替えゆ」とあり、第二案として馬車軌道から汽車鉄道に発展させることに言及しています。この三ツ山坑〜諏訪川案(さらに途中に七浦坑を開鑿して経由)は、小林秀和も三ツ山坑・七浦坑の開鑿案を推していたこともあり、具体的な動きが早くに見られます。9年7月には鉄道寮雇外人キンドルとニューカムが来訪し、鉄道用地の測量を行いました。この時点では京阪間に次ぐ本邦三番目の鉄道を目指していたに間違いなさそうです。
 一方、同年8月に赴任した新雇外人ポッター(英国人土木技師)は、対案として大浦坑〜大牟田川を馬車軌道で結ぶという案を提出します。大浦坑は古い小坑口群のひとつでしたが、これを近代化、また大牟田川河口を整備して、船積場(大牟田港)を設け、この間に馬車軌道を敷設するもので、従前のルートを発展させるものでした。ポッターは、ムーシェやゴットフレイと異なり、三池炭鉱に技術者として着任したので、より現実的な、早期実現可能なプランを提出したということが出来るようです。

 明治9年10月工部大輔山尾庸三が両案の比較検討のために来訪し、現地検分を行いました。その結果は、まず三ツ山坑〜諏訪川(ムーシェ・ゴットフレイ)案について「究て永遠の良策なりと雖も、今をこれを為さんとせば、概算七十余万円の巨費を要し、事すこぶる重大に渉り、目今容易に行わるる所にあらず」とし、他方、大浦坑〜大牟田川(ポッター)案を「永続の業にあらずと雖も、尚、十余年以内を支持するに足る。且、費金も十万円内外にて弁するを得べし」として、ポッター案の経済性を評価、同案に決議します。一方、「ムーシェ・ゴットフレイの主唱する工事はこれを永遠の業として姑らく後日に譲り・・・キンドル・ニューカムの測量図の如きは暫く櫃に蔵めて、もって後来の用に供せよ」となりました。こうして間もなく、大浦坑〜大牟田川馬車軌道の敷設に取り掛かることになります。
ところで廃案となった三ツ山〜諏訪川案とはどのようなものだったのでしょうか。残念ながら測量図は伝わっておらず具体的なルートは不明ですが、その分、想像の楽しみがあります。水は低きに流れるという道理から、ルートの一部は、のちの三池鉄道と同じルートを取ったであろうと想像される区間もあります。下図は当時の坑口、および海岸線を示して、坑口〜港の位置関係、三池鉄道ルート、私うしやんの私案としてムーシェ・ゴットフレイ案を再現しました。

(つづく)

(うしやん作成)現行地形図と三池煤田図(三池鉱山年報収録)をもとに、官営時代の坑口位置、および、現在と明治初期の海岸線と比較しました。三ツ山坑〜諏訪川ルートのうち、のちの三池鉄道と重なったと想像されるのは、早鐘線、逆様川線、本線(宮原町内)など。
 三ツ山坑から下ってきた線路は、七浦坑を経由したのち、諏訪川川辺に出ます。万田方面の開発はまだ行われておらず、そのまま川沿いに河口の波止場に至ったと思われます。


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