馬車軌道その2
2003年7月25日公開
Prehistory of theMiike Railway

(つづき)

 さて、明治9年10月、ポッター案が決議されると、すぐさま工事に取り掛かりました。同案は大浦坑を主力坑口とし、大牟田川の河口北側に船積場を設け、この間を馬車軌道で連絡、また、有明海を渡った島原半島の口之津港に貯炭場と船積桟橋を設けてこの間を航送するというものでした。口之津港にて外洋航路の汽船へ石炭積込みを行うことになります。
 概要は大浦坑の開鉱、馬車軌道の敷設、船積場の開設の3点にまとめられますが、当然ながら、ほぼ全てが三池炭鉱にとって嚆矢となる技術となりました。大浦坑は、旧鉱と区別して大浦第一坑や大浦新斜坑とも呼ばれました。火薬、汽缶巻上機の使用が始まっています。また、複線の坑内軌道が敷かれ、馬匹による坑内輸送が行われました。工事は明治9年12月に着手、11年6月に開鉱します。

 ここでは、もっぱら地上(坑外)について、やはり三池鉱山年報(『福岡県史』収録)からそのあらましを追ってみました。なお、年報では軌道のことを「車道」と記しています。
 大浦坑〜船積場の馬車軌道は、明治10年5月には用地買収を終え、軌道敷の築造に取り掛かります。「堤防」と記されることから、稲荷村〜河畔にかけての低湿地に土盛りをしたことが知れます。明治10年9月にはレイル敷設に着手しました。この間、長崎工作局より汽缶納入の報せがあり、この重量品輸送のため、3箇所あった橋を頑丈にするなど「車道の速成を促すや、最も急なり」、12月にはいったん竣工、汽缶到着を待って11年1月に無事輸送、同24日より橋の架け替え工事を行い、2月5日再竣工したとあります。
 実際の石炭輸送は「大牟田川底いまだ土工落成に至らずといえども、当分局前面車道に沿い、仮に石炭置場を設け、大浦坑より該所まで新製石炭車を運搬せしは(明治)11年2月25日をもって初とす」とあります。
 船積場は、当時はまだ大牟田港という呼名はなかったようですが、航路確保のための海底浚渫、水深確保のための川底浚渫、水門建設、桟橋建設と大掛かりな工事となりました。
 水門は「干潮の時、なお水積を畜停し、運炭船をして搭載に便ならしめ、かつ満潮に際しては各船容易に出入するを得るの利あり」とあり、大牟田川を堰き止めた船渠が造られました。のちの三池港にも見られるように、有明海の激しい干満差への対応策でした。
 明治9年12月には測量を終えたものの、折からの西南戦争によって、「薩軍、肥境に迫るの報あり。爾来、物情恟恟、役夫離散」し、大牟田が戦地となることはありませんでしたが「如何せん、戦地の雇銭過当なるを甘んじ、壮者は去って彼に就き、止まる者は老幼婦女のみにして、またその用に堪えゆきものなく」という具合で工事は遅れ、上記のように馬車軌道の竣工には間に合わず、11年7月に完了、ようやく本格的な馬車輸送が始まりました。 なお、口之津港の整備は明治12年6月竣工。桟橋に複線の軌道が敷かれ、炭車により船積みが行われました。また最初の小型汽船の曳船として明治12年7月兵庫工作局から有明丸が廻着しました。


三池煤田図(三池鉱山年報)を下図に大浦坑〜船積場間坑外軌道をトレース。小坑口は東へむけてさらに点在した。

大浦坑〜横須浜馬車軌道概要

区間 横須(水門)〜大浦坑 24町36間(約2.7キロ)、複線
レイルおよび軌間 18ポンドブリッジレイル 軌間20インチ(508ミリ)
最急傾斜および最急曲線 1/100 2.5チェーン(約50メートル)
車道幅 13尺(約4メートル)、稲田箇所42尺(約13メートル、疎水路含む)
枕木 2尺5寸×5寸×1尺6寸の松板を3尺(約90センチ)毎
自転車 2箇所(大浦坑前、稲荷村内)

 上表、「自転車」とは坂路での炭車引き上げに用いられた装置で、溝車とも言いました。至って単純な滑車の仕掛けで、坂を下る積車と、坂を登る空車をロープで結んで、釣瓶式に昇降を行うものです。「傾斜路は人馬の労働を省けり」とあります。セルフアクチンドラムというルビからSelf Action Drumの直訳と思われます。
 また、ブリッジレイルとは橋型軌条ともいい、逆U字断面のレイルでした。明治初期に軽軌条として一時用いられた記録があります1)2)

1)和久田康雄「逆U字型レールの発見」『鉄道ピクトリアル 339』
2)児玉清臣「古写真が語る高島炭鉱の石炭採掘技術」『産業考古学報 40』

搭載場(船積場)概要
水門 1箇所(第一水門)
搭載場および覆倒器 2箇所

 覆倒器は、タルンヲバルと振られていることからTurn Overだと思われますが、文字通り、鉱車をひっくり返して石炭を空ける装置でした。「石炭搭載の順序は、まず炭車を鉄路より該場(搭載場)に運送し来たり、これを前端覆倒器になる木台に載せ、鉄曲鉤を緩め、栓を抜き曲鉤を緩め、台とともにこれを覆倒せは炭箱の後角前面のの扣鉄に止まり、口自ら開き石炭落下」と逐一記されています。船上へはシュートを通して船積されます。明治11年6月竣工。
 第一水門は明治10年12月着手、翌11年7月竣工。
 『三井鉱山五十年史』に「現在の中島橋の架かっている所にあった」と記されています。いまも大牟田市浜町と、対岸の港町の間に中島橋という小橋がかかっていますが、同じ橋なのでしょうか。このあたり、川幅がぷくっと膨らんで、かつての船留りを忍ばせます。港町浜町の町名改正は大正8年ですが、かつての船場であったことが地名からも窺えます。なお第一水門は明治23年頃に撤去されました。

(つづく)


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三池鉄道前史その3